太陽の高度が一番低くなる冬至の日に、主な居住室の日照時間が4時間(北海道は3時間)以上確保されること。住宅金融公庫の融資対象になる住宅の条件の一つ。ただし用途地域によって条件が変わる。第一種低層住居専用地域、第二種低層住居専用地域、第一種中高層住居専用地域、第二種中高層住居専用地域の場合が4時間以上で、それ以外の地域の場合には2時間以上となる。商業系や工業系の地域では日照が重視されていない。 商品先物取引、長州藩士・杉七兵衛の3男として萩で生まれる。文政3年(1820年)6月、長州藩士で40石取りの玉木正路の養子となって家督を継いだ。 天保13年(1842年)に松下村塾を開いて、幼少期の松蔭を厳しく教育した。また乃木希典も玉木の教育を受けている。安政3年(1856年)には吉田代官に任じられ、以後は各地の代官職を歴任して名代官と謳われたという。安政6年(1859年)に郡奉行に栄進するが、同年の安政の大獄で甥の松陰が捕縛されると、その助命嘆願に奔走した。しかし松陰は処刑され、その連座により万治元年(1860年)11月に代官職を剥奪されている。 文久2年(1862年)に奉行として復帰し、文久3年(1863年)からは代官として再び藩政に参与した。藩内では尊王攘夷派として行動し、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐では萩の守備に務めた。明治2年(1869年)には政界から退隠し、再び松下村塾を開いて子弟の教育に務めている。 投資信託が明治9年(1876年)、前原一誠による萩の乱に養子の玉木正誼や門弟の多くが参加したため、その責任を取る形で11月6日に先祖の墓の前で自害した。享年67。 山口県萩市に旧宅が保存されている。 美濃国赤坂に生まれ、同国大野郡の医者所伊織の養子となった。初め、青木松軒や京の安藤桂洲に学ぶ。このころ、同じく美濃出身の柳川星巌と親交を結んだ。万延元年(1860年)には大坂の適塾に入り、緒方洪庵に学んだ。ついで京に医者として開業して、この頃から長州藩士と交わり、尊王思想の大義を説いている。 文久3年(1863年)には長州藩邸内の医院総督となり、八月十八日の政変では長州に下向している。 外貨預金、長州藩領の吉敷郡に開業し、同年9月には刺客に襲われて重傷を負った井上聞多の治療にあたり、井上の一命を救うのに成功している。その時、郁太郎は、手術道具がないものの、畳針によって井上の一命を取り留めたのである。郁太郎が井上の家に着いた時は、すでに2人の医者がいたが、全く手をつけられず、結局郁太郎によって助けられた。このことから、かなりの手術技術を持っていたといえる。 翌年には遊撃隊参謀として高杉晋作を助けて転戦したが、陣中で発病し吉敷村の陣営で没した。享年28。墓は山口県山口市吉敷上東に現存している。 周防国吉敷郡陶村(現在の山口県山口市)の出身。幼少の頃に天然痘にかかり右目を失明する。9歳で藩校明倫館に入り、13歳で藩世子(藩主嫡男)に『大学』に講じた。成人後、小姓を務めるが、他人と打ち解けなかったために、同僚・親族らに憎まれ、嘉永5年(1852年)に冤罪で見島に流され、翌年には萩野山獄に移された。そこで同じく幽閉中であった吉田松陰と意気投合し、安政4年(1859年)の出獄後は松陰の松下村塾で講師を務めた。安政の大獄で松陰が捕らえられると、吉敷郡に帰って秋穂二島村(現在の山口市)定基塾を開いて尊王論を説いた。 CFDの四境戦争では、鋭武隊を率いて石州・芸州口で幕府軍と交戦した。だが、明治維新後の開国政策への不満から、大楽源太郎とともに脱隊騒動を起こして敗北、各地を逃亡した。明治10年(1877年)に逮捕されて、2年後大審院において有罪判決を受けて国事犯として石川島監獄に収容される。明治17年(1884年)に特赦により釈放され、2年後に熊毛郡城南村(現在の山口県田布施町)に住む実妹の元に身を寄せて帰来塾を開いて後進の指導にあたった。 著書に『大学述義』・『中庸義解』・『兵要録口義』などがある。 なお国木田独歩の小説「富岡先生」の主人公のモデルは晩年の有隣である。 1848年、 萩城下川島村に長州藩士中村宇右衛門敬義の長男として生まれる。一之助、百太郎、照光、鳳輔、敬孝などと称した。安政5年(1858年)に江戸に出て江川英龍に砲術を学び、1860年に帰藩。1863年に奇兵隊に入隊し、倒幕活動に従事した。戊辰戦争では建武隊参謀、鳥尾隊を組織して各地を転戦した。維新後は紀州藩に招聘されて軍制改革に参与している。 不動産投資は兵部省に出仕して陸軍少将となり、陸軍省設置後の1872年には陸軍中将に昇任。陸軍大輔、参謀局長、近衛都督など要職を歴任したが、1880年に病気のため一切の職を辞した。 陸軍内においては、政治的立場の相違から山縣有朋らと対立を深め、反主流派である月曜会を形成した。1881年の開拓使官有物払下げ事件では、三浦梧楼、谷干城、曾我祐準と共に山縣有朋や大山巌と対立。そのため、当時現役でありながら非職であった鳥尾は統計院長へと左遷され、その後は元老院議官や貴族院議員などを務めたものの、再度陸軍の要職に就くことはなかった。 晩年には一切の職を辞して参禅生活に入った。1889年に禅の弟子の川合清丸とともに日本国教大道社を組織し、機関誌『保守新論』を発行。1898年に大日本茶道学会の初代会長に就任。1901年には青少年教育を目的に統一学を起こし、翌1902年に統一学社を設立するなど、国粋主義の興隆に努めた。 1905年、静岡県熱海市の別邸にて死去した。墓所は兵庫県加古川市の光念寺。 陸軍においてはフランス軍制派に属し、山縣有朋らのドイツ軍制派と対立した。1881年の開拓使官有物払下げ事件に際しては、同じく同派に属していた四将軍(鳥尾、三浦梧楼、谷干城、曾我祐準)の連名で、払下げ反対の趣意を述べた建白書を明治天皇へ上奏している。 貴族院においては月曜会を属して藩閥政府に対抗した。彼らは自由党と立憲改進党を論敵と見なし、政府の西欧化政策、キリスト教への批判を展開した。また佐々木高行や元田永孚ら宮廷派、陸軍の反主流の谷干城らを合して中正党を結成した。民権運動や議会主義を批判し、藩閥政府に対しても反対的な立場を取っている。また鳥尾は、主義である保守中正を唱えて、機関誌『保守新論』を発行した。 幕末期、変名を鳥尾小弥太と称している。変名を名乗るに至った理由として、家族に勤王活動の累が及ぶことを畏れた父が勘当したため、と伝えられている。当初は変名のつもりであったが、長州藩主毛利敬親から「鳥尾小弥太」宛の感状を拝領するにおよんで正式に改名した。 鳥尾坂(東京都文京区関口3丁目9と11の間)。当時のこの付近(関口台公園、獨協中学校など)に本邸を構えていた鳥尾は、西側の鉄砲坂があまりに急坂で通行人の難渋する様子を見、私財を投じて坂道を開いた。感謝した地元の人々によって「鳥尾坂」と名づけられた。坂下に坂名を刻んだ石柱が残っている。 幕末期、当時奇兵隊の陣屋であった法専寺(山口県下関市吉田)に駐屯していた鳥尾は、「我が国は神国であるにもかかわらず、仏教が年に盛んになって、石地蔵までが氾濫しているのはけしからん」として檄昂し、隊士を引き連れて境内にあった6体の地蔵の首を切り落としている。なお、現在は地蔵の首の中心に鉄棒を打ち込み、セメントで首をつないで補修がなされている。 明治期の教育者下田歌子に禅学を教授している。 封建制度の終焉となった廃藩置県は、鳥尾と野村靖が山縣有朋に提起したのが発端であるとの説がある。 1890年の帝国議会。時の司法大臣山田顕義がフランス人法律家を用いて法律改正をしようと提議したところ、鳥尾は強硬に反対した。しかし翌日の議会では何故か賛成にまわっている。鳥尾が変節したのは、山田から涙を揮って自分の苦心を説いたためで、これに動かされて心機一転に及んだのだという。鳥尾にはこういう話が他にも沢山あったらしい。