始めよう!不動産投資基本編


開発行為とは?

建築物の建築などを目的に、土地の区画を分割・統合したり、造成工事をしたり、農地から宅地へ地目を変更するなど「土地の区画形質の変更」をすること。三大都市圏の既成市街地や近郊整備地帯の市街化区域では原則500平方メートル以上、そのほかの市街化区域では原則1000平方メートル以上の開発行為を行う場合は、都道府県知事の許可が必要になる。未線引き区域では原則3000平方メートル以上、市街化調整区域では規模に関係なく開発許可が必要。 は、明治2年(1869年)山口藩権大参事となる。翌年上京し、10月に刑部少輔。明治4年(1871年)11月には司法大輔。明治5年には文部大輔となる。明治10年(1877年)元老院議官となる。明治12年(1879年)3月には清国駐剳全権公使に任命された。琉球藩を廃止し沖縄県を設置した(琉球処分)直後であり、琉球の帰属問題が両国間の懸案となっていたが、宍戸は琉球に対する日本の領有権の法的根拠を明記した寺島宗則・井上馨外務卿の覚書を清国総理衙門へ提出、翌年交渉は妥結する。しかし清朝の重臣李鴻章らの反対により調印には至らず、明治14年(1881年)1月には交渉を打ち切って帰国した。 には宮内省出仕となり、明治17年(1884年)4月には参事院議官。明治18年(1885年)12月には再び元老院議官。明治20年(1887年)5月にはこれまでの功績を認められ子爵に叙爵。明治23年(1890年)帝国議会の発足に際し貴族院議員に任命され、錦鶏間祗候となる。 土佐藩連枝の山内南家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男。母は側室・平石氏。正室は烏丸光政の娘(三条実万の養女)。子は山内豊尹(長男)、娘(北白川宮能久親王妃)、娘(小松宮依仁親王妃のち秋元興朝継室)。幼名は輝衛。酒と詩を愛し、自らを『鯨海酔侯(げいかいすいこう)』と称した。幕末の時流に上手く乗ろうとした態度は、当時の志士達から、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。 文政10年(1827年)生まれ。豊信生家である山内南家は石高1500石の分家で、連枝五家の中での序列は一番下であった。通常、藩主の子は江戸屋敷で生まれ育つが、豊信は分家の出であったため高知城下で生まれ育った。 ipo・山内豊熈、その弟で14代藩主・山内豊惇が相次いで急死した。豊惇は藩主在職僅か12日という短さでの急死で山内家は断絶の危機に瀕した。豊惇には実弟(後の16代藩主・山内豊範)がいたがわずか3歳であったため、分家で当時22歳の豊信が候補となった。豊熈の妻・智鏡院(候姫)の実家に当たる薩摩藩などの後ろ盾により老中首座であった阿部正弘に働きかけ、豊惇は病気のため隠居したという形をとり、嘉永元年12月27日、豊信が藩主に就任した。 藩主の座に就いた豊信は門閥・旧臣による藩政を嫌い、革新派グループ「新おこぜ組」の中心人物・吉田東洋を起用した。嘉永6年(1853年)東洋を新たに設けた「仕置役(参政職)」に任じ、家老を押しのけて藩政改革を断行した。翌、安政元年(1854年)6月、東洋は山内家姻戚に当たる旗本・松下嘉兵衛との間にいさかいをおこし失脚、謹慎の身となった。しかし3年後の安政4年(1857年)東洋を再び起用し、東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝悌らを起用した。 豊信は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち幕末の四賢侯と称された。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。阿部正弘死去後、大老に就いた井伊直弼と将軍世継問題で真っ向から対立した。13代将軍・家定が病弱で嗣子が無かったため、容堂ほか四賢侯、水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。一方、井伊は紀州藩主・徳川慶福を推した。井伊は大老の地位を利用し政敵を排除した。いわゆる安政の大獄である。結局、慶福が14代将軍・家茂となることに決まった。容堂はこれに憤慨し、安政6年(1859年)2月、隠居願いを幕府に提出した。この年の10月には斉昭・春嶽・宗城らと共に幕府より謹慎の命が下った。 個人向け国債を慶ぶ山内容堂像(山内神社境内)前藩主の弟・豊範に藩主の座を譲り、隠居の身となった当初、忍堂と号したが、水戸藩の藤田東湖の薦めで容堂と改めた。容堂は、思想が単純ではなかった。藩内の勤皇志士を弾圧する一方、朝廷にも奉仕し、また幕府にも良かれという行動を取った。このため幕末の政局に混乱をもたらし、のち政敵となる西郷隆盛から「単純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」とまで言わしめる結果となった。 謹慎中に土佐藩ではクーデターが起こった。桜田門外の変以降、全国的に尊皇攘夷が主流となった。土佐藩でも武市瑞山を首領とする土佐勤王党が台頭し、容堂の股肱の臣である吉田東洋と対立。遂に文久2年4月8日(1862年5月6日)東洋を暗殺するに至った。その後、瑞山は門閥家老らと結び藩政を掌握した。 文久3年8月18日(1863年9月30日)京都で会津藩・薩摩藩による長州藩追い落としのための朝廷軍事クーデター(八月十八日の政変)が強行され、長州側が一触即発の事態を回避したため、これ以後しばらく佐幕派による粛清の猛威が復活した。容堂も謹慎を解かれ、土佐に帰国し、藩政を掌握した。以後、隠居の身ながら藩政に影響を与え続けた。容堂は、まず東洋を暗殺した政敵・土佐勤王党の大弾圧に乗り出し、党員を片っ端から捕縛・投獄した。首領の瑞山は切腹を命じられ、他の党員も死罪などに処せられ、逃れることのできた党員は脱藩し、土佐勤王党は壊滅させられた。同年末容堂は上京し、朝廷から参預に任ぜられ、国政の諮問機関である参預会議に参加するが、容堂自身は病と称して欠席が多く短期間で崩壊した。 資産運用の直前に脱藩していた土佐の志士たち(坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元)の仲介によって、慶応2年(1866年)1月22日、 薩長同盟が成立した。これによって時代が明治維新へと大きく動き出した。 慶応3年(1867年)5月、薩摩藩主導で設置された四侯会議に参加するが、幕府権力の削減を図る薩摩藩の主導を嫌い、欠席を続ける。結局この会議は短期間で崩壊。しかし6月22日には京都において、中岡慎太郎・坂本龍馬の仲介により、薩摩の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛と土佐の後藤象二郎・板垣退助・福岡孝弟・寺村左膳・間部栄三郎が会談し、幕府排除と王政復古のための薩土同盟が成立した。これにより、土佐藩全体が徐々に倒幕路線に近付いていくことになった。 容堂は自身を藩主にまで押し上げてくれた幕府を擁護し続けたが、倒幕へと傾いた時代を止めることは出来なかった。幕府が委託されている政権を朝廷に返還する案および「船中八策」を坂本龍馬より聞いていた時の藩参政・後藤象二郎はこれらを自分の案として容堂に進言した。容堂はこれを妙案と考え、15代将軍・徳川慶喜に建白した。これにより慶応3年10月14日(1867年11月9日)、慶喜は朝廷に大政奉還した。 隠居生活は当時、別荘地として知られた橋場(東京都台東区)の別邸(綾瀬草堂)で、妾を十数人も囲い、酒と女と作詩に明け暮れる豪奢な晩年を送った。また、連日で両国・柳橋などの酒楼にて豪遊し、ついに家産が傾きかけたものの、容堂は「昔から大名が倒産した例しがない。俺が先鞭をつけてやろう」と豪語し、家令の諌めを聞かなかったという。また、武市瑞山を殺したために土佐藩内に薩長に対抗できる人物を欠いて新政府の実権を奪われたと考えてこれを悔やんだともいう。明治5年(1872年)、積年の飲酒が元で脳溢血に倒れ、46歳(数え年)の生涯を閉じた。墓所は土佐藩下屋敷があった大井公園(品川区東大井4丁目)にある。